金鑚山元三大師の縁起と歴史      
                                                      

●「元三大師」の寺

 当寺は飛鳥時代(1350年前)聖徳太子が創建し、舒明天皇の勅願寺と伝えられています。平安初期、
仁明天皇の御代(833〜850)、慈覚大師円仁が入山し、本尊に十一面観音を安置して天台宗に所属さ
せ、金鑚山一乗院大光普照寺と名付けて開基となられました。平安中期に入り、元三慈恵大師が当寺に
滞在し、教えを弘められ、またご自作の像を刻み、これを奉安したので元三大師の寺として広く世に知られ
るようになりました。


●檀林寺として繁栄

   鎌倉末期後伏見天皇の御代(1298〜1301)には、川越の喜多院
 より尊海僧正の弟子であった豪海が入山して中興の祖となり、「金鑚談
 所」という僧侶の学問所を開設しました。当時喜多院と長沼の宗光寺(栃
 木県真岡市)と共に関東の三談林と称され、東国天台宗の中核となりました。
 後に談林寺はその数を増し、江戸時代初期上野に勧学講院 が開設される
と、その傘下に入り、当寺は八箇檀林の一寺となりました。
 当寺の住職は代々学僧によって引継がれたので「学頭」と称され、今なおこの呼び名が残っており、現在
65世にまで及んでいます。
 後冷泉天皇の御代、永承5(1050)年には、源義家の勅命により、義家が東北征伐を行う際、当山に祈願
をしたところ、著しい霊験があり、征伐を遂げたため、寺領三千石と諸々の珍しい宝物(現在金鑚神社社宝)を
賜わりました。その後、鉢形城主北条氏邦の寺領寄進があり、また天正19(1591)年、11月に徳川家康より
寺領三十石の御朱印を賜わるなど、当寺は大いに隆盛を見ました。しかし元禄11(1698)年、冬火災に遭い
多くの堂塔伽藍を焼失することとなりました。寺の建物は、その後50世慧章の代、文化5 (1808) 年3月に、
見事に再建され、その客殿が現在の本堂であります。

●明治維新以後

 なお明治維新の神仏分離令により、当山の奥の院金鑚大明神は武蔵ニノ官金鑚神社として分立し、多宝塔も
神社の所有となりました。しかし、当山は厄除元三大師の寺としての法燈を引き継ぎ、遠近の善男善女の信仰
を集め、多くの方々のご参拝をいただいています。現在、関東屈指の霊場として、また児玉三十三霊場三十三番
札所ともなっており、たくさんの観光客でにぎわっています。


元三(がんざん)大師について   

●比叡山「中興の祖」

 元三大師・良源は延喜12(912)年、近江国の浅井郡に属する虎姫(現在の滋賀県長浜市)に生まれ
ました。幼名は観音丸(日吉丸とも)といい、12歳のとき(15歳ともいう)、比叡山に上り、仏門に入りました。
その後南都(奈良)の旧仏教寺院の高僧と法論を行って論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなどし
て徐々に頭角を現わし、康保3(966)年には天台宗最高の地位である天台座主に任命されました。
 当時の比叡山は承平5(935)年に大規模な火災があり、根本中堂をはじめとする多くの堂塔を失い、荒廃し
ていました。元三大師が天台座主に就任した康保3(966)年にも火災がありましたが、大師は焼失した堂塔
を再建しまた、創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎をつくり
ました。元三大師は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、さまざまな功績から、
比叡山「中興の祖」として尊ばれています。




●角大師の由来について


 疫病が流行していた、永観2(984)年の風雨の夜明けに疫病神が大師を襲おうとしたので、大師が試みにとして
小指の先にそれを宿したところ激痛が全身を走り、高熱を発しました。これによって自らの降魔の姿として、疫病
を退散させたというものです。
 その時の大師は「疫病をわずか一指に宿しただけでこのような苦しみを覚えるのだから、全身を侵され逃れる術
(すべ)を知らない人々は、何としても気の毒であり、一刻も早く救わなければならない」と考え、鏡に自らを鬼の姿としたものを
写し、弟子に残るところなく写し取らさせたといいます。それを版木に彫り、刷り上げたのが角大師の護符(お札)でありお札を
いただいた家は、一人も流行病に罹らず、病気に罹っていた人々もほどなく全快して恐ろしい流行病もたちまち消えうせたと
のことです。
 それ以来、このお札は毎年新しいものを戸口に貼るようになり、疫病はもとより全ての厄災を除き、盗賊他、邪悪な心を持
つ者は、その戸口から出入りできないとされました。
 このような理由で、日本全国どこの宗派に属する寺院も正月には必ずこの護符を檀信徒に配布して、その年の厄災を防ぐ
ようになったのです。


●魔滅大師の由来について

 元三大師の姿が三十三体、刷られているお札もあります。これは「魔滅大師」といわれています。その起源は寛永
年中にあるとされています。ある百姓が、家を離れて横川の元三大師堂へ豊作祈願に来ている時、天候が荒れて
豪雨になりました。百姓は田植えの済んだだばかりの田んぼを心配して、田作りの守護である大師に「お助けください」
の一念で祈ったそうです。降り続く雨の中を走るようにして山を下り、家に帰ると、不思議にもその百姓の田んぼだけ
が助かっていました。隣家の人の話によると三十人あまりの子供上がりの若者が手に手に桶や鍬を持ってきて、畔を
作ったり、水をくみ出したり手際よく働いていたそうです。
 この三十人あまりの若者とは、観音の化身である大師が三十三人の童子となったのです。この後三十三体の大師
の姿を納めたお札を「魔滅大師」と称し、田の作りを護るお札として、田植えが終わり次第、竹の皮に包んで竹に挟み
田ごとに立てるようになりました。現在ではさらに「魔」を滅する厄除けのお札として、広く人々の信仰を集めています。

 


●通称「元三大師」

 朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は慈恵大師ですが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれ
ています。元三大師には「角(つの)大師」「魔滅大師」「豆大師」「厄除け大師」など、さまざまな別称があり、信仰を集めてい
ます。また、全国の社寺に見られる「おみくじ」の創始者は元三大師だと言われています。 なお大師の高弟には恵心(源信)、
覚運の2大学匠と呼ばれる高僧がおり、それぞれ恵心流と檀那流の教学を大成しこれが関東天台の基礎となっています。当山
ではこのうち恵心流の系統を受け、それを基に学徒の勉学がなされています。


主 な 寺 宝

【経巻】

鉄眼版一切経初版 了翁禅師の寄贈
鉄眼版大般若経   六百巻
紺紙金泥法華経   一部八巻


 

【古文書】

豊前守政実の寄進状(町指定文化財)
北条氏邦の印判状(町指定文化財)
僧正口宣案、下文(町指定文化財)
天海大僧正補任状(町指定文化財)
談林関係の文書 四通
元三大師奥之院金鑚大明神再建立勧化帳
多宝塔修理勧化帳 元三大師略縁起

【彫刻・絵画】

@欄間彫刻 十六羅漢・二十八部衆
A障壁画 三国志・唐獅子と牡丹・金鑚大師壁画
  内閣総理大臣賞受賞 恵部礼寿戸山群(六郎田画伯作)
B天井画  外陣 格天井
C掛軸 両界曼荼羅対幅(町指定文化財)
  山王権現図・台密曼荼羅対幅・十二天画像屏風・東照大権現
 ・蕪村の群盲観像図・十六羅漢
D絵馬 酒呑童子

【石塔】

五輪宝塔三基  六百年前・多宝塔
皇軍戦没者供養塔  豊道春海翁揮毫


戻 る